●40代、挟まれてばかりの人生さ

わたくし黒辺あゆみ、小説家をしていまして。ヒットを飛ばしまくりの売れっ子作家なわけではないけれど、なんとか小説家という職業を続けている、そんな身の上でございます。  けどこれだって、最初から「私は小説家になるんだ!」という目標に向かってまっしぐらに突き進んだ結果、というわけではなく。「なんとなく、こうなった」これに尽きるわけですよ。

思えば自分、幼少期よりいつだって「時代の境目」にいたように思うんです。  昭和五十一年生まれな私がまず立ち会った境目は、「昭和と平成」の境目。しかも平成になった年に小学校を卒業して、中学校に入学ですよ、すごくないですか? 境目中の境目ですよ。ある意味覚えやすいわ。

そして中学校を経て高校に入学すれば、なんと高校の制服が自分の次の学年から変わるというミラクル。これも個人的には時代の変わり目ですよ。ブレザーかセーラー服だった制服世界に、ちょいと毛色の違う制服がブッ混まれてきたのが、ちょうどこの頃でしたっけ。  それから大学に進学することができれば、やってきましたバブル崩壊! これぞ日本経済のデカい境目です。  実際には私が大学進学するちょい前にはバブルがもうはじけていたわけだけれども、余韻がしばらく残っていたわけですよ。親は大学生活の間に景気が回復するだろうという希望的観測のもと、高卒で不景気の中へと放り出されるよりはいいか、と進学に賛成したようです。  だというのになんと、大学卒業時には就職氷河期の底! 私たちが卒業した年度には、大手企業が軒並み求人ゼロを通告してきたという、伝説の年ですよ。おかげで高学歴が高校生の求人に横槍を入れるし、バイト生活に突入する人続出でバイトも人手があふれる始末。マジで「なにしてくれてんだ、大人たちよぅ!」って叫びたいですよね。  それにその時の求人ゼロの影響が四半世紀経とうという今になって、人手不足という現実を生み出しているんだから。本当に社会で偉そうにしている大人の判断は、アテにしてはいけないっていう教訓ですよ。

まあ、そんな個人的な愚痴はおいておくとして。  次に直面するのは「ITの境目」ですか。  私が大学卒業してアルバイト生活になり、そのアルバイト代でパソコンを買ったわけで。これもなにか目的があったわけではなくて、「パソコンでも買ってみるか」と思い立ち、「買ったなら、パソコンでなんか書いてみるか」となったんですよ。いや、マジでそういうノリで。  決して、「小説を書きたいからパソコンが必要なんだ!」ではなかった。  そうそう、当時は今ほどパソコンが普及してはおらず、ガラケーだって一部の人が使っている時代だったんです。Wi-Fiなんていうものも、少なくとも一般家庭用にはなくて、有線でインターネットをする。我が家は兄が欲しがったために家にインターネットを引いていたんで、私はその恩恵を受けたっていうことになるか。

そこから、私の小説家人生が始まるわけですが、最初に手をつけたのは二次創作でしたね。  当時は個人でホームページを作って作品を公開するのが一般的でした。そんな中でどうやってアクセスを増やすのかというと、インターネットで趣味の仲間で集まる「リンク集」を有志が管理してくれて、その「リンク」に参加することで、趣味仲間の目に留まってアクセスが増えるっていうシステム。今のような小説投稿プラットフォームなんてない、完全人力ですよ。当時の管理人の皆様、きっとものすごく面倒臭い作業だったことでしょうね。ありがたい……!

そんなところへ現れたのが、「小説投稿サイト」ですよ。これぞアマチュア小説家にとっての最大級の境目! この投稿サイトの便利さを知ってしまえば、もう自力でコードを組んでいくというホームページ生活には戻れないわけで。リンク集だんだんと消えていくことになる……ああ無情。  とまあそんなこんなで「小説家・黒辺あゆみ」が誕生したわけですよ、おめでとう自分!  けれどその後、これほどネット環境が充実して、パソコンどころかタブレット、果てにはスマホなんていうものでもこれほど自在にネットにアクセスできるだなんて、当時誰が想像できたか? このネット環境の発展は、たかだか十年程度のことなもんだから、世界の変化って本当に早いですね。

●なんとなく小説書きになる

小説家は、自分が小説書きだと思えば小説家なわけで。そういう意味では、二次小説を書き始めた時点で小説家だったわけです。けれど一般的に小説家といえば、やはり商業デビューをした人を指すのでしょう。そういう意味では、私が小説家となったのはデビュー作の「宰相閣下とパンダと私」が発売された時か。

そもそも私が小説を書き始めたのは、決して「文学が得意だから」というわけではない。  私の小学校時代、仲良しの友人がいたんです。仲良くなったのは、家が近所で帰り道が一緒だった、という理由が大きいだろう。けれど小学校時代の友人なんて、そういうものだ。  その友人たちがその後の私のオタク人生の指標となるわけで。友人たちがハマる漫画やアニメに、もれなく私もハマるんです。そしてその友人たちが、抜群に絵が上手かった! 一方で、私は絵の才能はイマイチ。いや、続ければもしかするとなんらかのタイミングで成長したのかもしれないけれど、当時の私にはそこまで絵に情熱をつぎ込む意味を持ち得なかった。そして、友人たちと絵で一緒に盛り上がれない私が考えたのが、「小説を書けばいいじゃないか!」だったんです。

けれどこれが案外私には合ったのか、その友人たちと高校進学先の関係で分かれてからも、ちょいちょい個人的に書きたくなって、ノートに書いていたんです。そして受験でオタク活動どころではなくなるも、大学進学で文芸サークルに入り、我慢していたオタクの血が爆発! しかも小説を書くのは自分だけではなかったことで、ある意味安心して小説が書けるようになったわけです。  そう、私の小説家人生の初っ端は、いつだって流されてのこと。けれど人生って、案外そんなものですよね。

●「独身」というものに挟まれて

ところでワタクシ、実は独身でございまして。  というより、就職氷河期世代は独身率が圧倒的に高い。結婚に適した年齢時期に、男女共に家族を養える収入を得られる仕事に付けなかったからだろう、というのがよく色々な所で述べられている理由だ。けれどそれだけかな? という疑問が湧く。だってお金が無くったって、結婚する人はするじゃない? 無関係の人にとって一番説得力がありそうな理由が「お金」っていうことなんだろう。  一方で私はというと、「寿退職」という制度というか暗黙の了解が崩れたのも、またこの世代の時期なんじゃないの? なんて思っていたりする。

私が学生の頃は「寿退職」は普通にあったし、実は私も将来は結婚したダンナサマに養ってもらうものだと考えていた。あの時代、それが多数派の生き方だったんですよ。  それがいつからか、急にそんなことを言われなくなったし、結婚しても子どもを産んでも働き続ける女性たちが徐々に多数派になっていく。  これについては、女性の地位がようやく上昇した、とかではないだろう。  だって考えてみてくださいな。就職氷河期に新入社員をとらなかった会社は、その間ずっと人員補充がされないっていうこと。つまり今いる社員を安易に辞めさせては、会社が回らなくなるわけだ。  そう、女性に「寿退職」をさせるわけにはいかなくなったんだな。  「寿退職」がなくなっていつまでも女性が働くようになると、「社会で働く女性は若い人が大多数」ではなくなる。女性が歳を重ねて会社にいても、目立たなくなった。若さのカウントダウンと共にかけられていた「寿退職しないの?」の圧がなくなれば、「寿退職」するために結婚相手を急いで探す必要もナシ。そうして、女性の独身時代が長くなると、どうなるか? 「あれ、お一人様で生きていく方が気楽でよくない?」  そう気付いちゃったわけだな、我々世代は。