理世はうんざりだった。 「あのさぁ、※※※って×××だよな」 目の前に座る兄がなにか話題を振っているのはわかっているが、反応する気もなく黙って茶碗のご飯を箸でつまむ。 「この話題には興味ないかぁ、はいはいわかりましたぁ~」 それに兄は馬鹿にしたような言い方ながら、「相手にされず傷つきました」と言わんばかりの顔をする。 「んふふふ」 母がそう笑いを挟めば、「この会話はもう終了」という暗黙の合図だ。  今は夕食時。一日の内で必ずこの兄と顔を合わさなければならないという、苦行の時間だ。十分間だけ我慢すれば、早食いの兄はさっさと自分の部屋へと戻るだろう。そして私には、家族三人分の茶碗を洗って片付けるという作業が待っているのだ。  別に食事なんて、各自バラバラに食事を食べることもできるし、実際朝食はそうしている。  朝から兄の顔を見たくないから。  けれど食事とは基本的に全員で一度に食べないと、後片付けが長引くだけ。そうなると、結果この苦行の時間が伸びるではないか。なにしろ、兄は家事の負担なんていうものを全く気にしない、いや、ひょっとするとボタンをポチッと押せば、全て片付けられる便利ハウスだとでも思っているのではないか? 理世は最近、本気でそう考えることがあった。  理世はもうずっと、兄の言葉はただの記号――いや、信号だと思うことにしていた。妹である理世をコントロールしようとしている、邪悪な信号だ。

数年前に、父が死んだ。  理世と兄は就職氷河期世代で、理世は就職し損ねた組で、兄は就職した会社に合わずに辞めた組みだった。そして二人ともに今、実家で親と同居――無責任な世間様が言うところの「親のすねかじり」をして生活している。  理世は幸いにして今、職に就くことができているが、兄は実家のクリーニング店に就職だ。これだって兄自ら就職したわけではなく、いつまでも仕事を探さないしアルバイトもしないので、怒った父に強制的に働かされたのだ。  その父が死んだ。  すると兄はどういうわけか、父のポジションだった家族の立ち位置は自分のものだと考えたらしく、会話や態度が横柄になった。どうやら兄の中で、兄は我が家のお殿様で、理世や母はお付きの女中さんの役目が割り振られたらしい。  意味不明だ。何故理世が兄に尽くすのだと思えるのだろうか?  理世がこうして実家を離れるのを躊躇しているのは、高齢の母がいるからだ。母に家事などの無理をさせられないため、こうして兄と嫌々食卓を囲むことになっている。  なのにこの兄は、今いる二人の「女中さん」たちは、自分が死ぬまでここにいて面倒を見てくれるものだと、半ば信じているらしい。  思えば兄は昔から「自分は頭の良いエリート」で、理世は「頭の悪い妹」と振る舞いたがった。それが兄が考える、理想の兄妹だったのだろう。今は不景気のせいでクリーニング業が流行らず、その妹の金銭補助があって暮らしていけているというのに、それでも「頭の悪い妹を導く、頭のいいエリートの自分」なのだ。  それに世間が兄のことを「男」だというだけで、「頼もしい跡継ぎ」だなんて持ち上げてくるのが、また兄を舞い上がらせている。

ところで数か月後には、私は近くに購入した自宅へと引っ越して一人暮らしを始め、母はその近所の老人ホームへと入ることが決まっている。それがどういうことなのか、兄はわかっているのだろうか? 掃除もろくにしない、炊飯器で米も炊いたことのない、電子レンジとオーブンの違いもわかっていない、この兄は。いや、理世があまり真剣に話をしていないので、冗談だと捉えているのかもしれない。なんだかんだで、理世と母は自分を見捨てないと、そう信じている兄なのだから。  いや、信じたがっているだけかもしれない。 「家なんか買うな、この家に暮らしていればいいじゃないか」 以前に理世が家を買おうとしていることを聞き知った兄は、面と向かってそう言ってきた。やはり、妹の独立を喜ぶ気持ちなんてこれっぽっちもなく、理世をただの金蔓としか見ていない兄なのだ。  それ以来、兄は信号を吐き出すだけのナニカだと思うことにしたのだけれど。この兄がいずれ一人で家という空間に放り出されることになるのは、今から考えても滑稽である。

引っ越しのその時がきたら、せいぜい晴れ晴れとした顔で出て行ってやろう。  そして言うのだ、「せいぜい長生きしてね」って。