先日、新聞で「論理的とはなんぞや?」みたいな記事を読んだのだけれども。 論理的というと、日本人が思い浮かべるのは「アメリカ式」の論理的。実は他にも色々あって、文化の数だけ論理的は存在するらしいですよ。 そしてアメリカ式論理的だけれど、アメリカで今の論理の型が主流になったのには、実は始まりがあるらしい。
参照は以下の記事。
「論理的」とは 文化圏で異なる型 各国の作文教育を調査し、書籍に:朝日新聞
この記事で、こんなことが書かれてあった。
アメリカの典型的な論理の型は、「5パラグラフ(段落)エッセー」。冒頭の段落で主張を挙げ、三つの理由と結論を述べる。ベトナム戦争から復員した若者が大学に殺到したことで、教員が効率的に採点できるこの形式が広がっていったという。
つまり、わかりやすくぶっちゃけるとだな。 戦争帰りの元兵士の若者が大学にあふれる中で、教授方はサッサと論文を添削できて捌ける方法が欲しかった。それでこの書き方ならば、最初に結論を言ってもらえるから、それが違っていたり好みじゃなかったりすると、それ以降を読まないでポイできる! なんて効率的なんだ! すなわち、わかりやすいかどうかではなくて、あくまで「添削の効率」なんだな。それで育った学生が上司になって、同じ方法で部下や教え子を扱うってわけ。 このやり方はスピード感ではピカいちだけれど、熟慮を必要とするシーンには当然向かない。これ、なんか今のアメリカ社会の闇を生んだ一因な気がするな……。
とはいえ、私は社会がうんぬんという話をしたいわけではなくて。 これって、ラノベ界のテンプレと同じだな、とふと思ったわけだ。 どこの小説投稿サイトでもWEB上でのコンテストを開催しているけれど、そのどれもで「今欲しい題材」というのを提示しているのよ。 欲しい題材っていうのは、今流行っていて売れている路線だね。そうでなくても、コンテストに応募する人たちはそもそもが、そのコンテスト主催の出版社のヒット作を確認して、好きそうな内容に寄せていくっていうのに、それがさらに狭まっていくのよ。なんなら「○○ジャンルコンテスト」みたいにジャンル指定をされる始末。 それでいて、主催者からの講評には「もっと自由な発想が欲しかった」とか書かれちゃうんだよ? いやいや、発想の幅を狭めて来たのは、そもそもそちらでしょうが! ってツッコミたい。 最近は自分、そういうWEBでのコンテストに参加するのはお休みしているけれど、こういうコンテストの息苦しさで、ふと既視感を感じた。 これね、入試の小論文とか就職活動でのエントリーシートみたいじゃない? 大学やら会社やらは「自由な発想ができる人材が欲しい」とか言いながら、入試内容はテストの点数だったり、エントリーシートは他の会社と似たようなテンプレだったり。 ……いや、自分の時代は履歴書で、エントリーシートは書いたことないけれども。 つまり、それとラノベは同じ。コンテストに応募する作品は、小説家のエントリーシートなのよ。 だから、注意ポイントも就活なんかと一緒なんだな。 それは、相手が求める「イイコ」に無理に寄せようとしないこと。 もしも、エントリーシートに自分の等身大よりもかなり盛って書いて、好きでもないことを「趣味」に書いて、それを目的で採用されたらどうする? ネットで検索して上っ面だけを調べて、それをしったかぶっていい感じに書いただけなのに、専門扱いされてしまったら? それと同じ現象になるのが、「興味もないし好きでもないジャンルをそれっぽく書いてみる」ということ。 これが顕著なのが、今まだ絶賛流行中の中華後宮を代表とするアジアンファンタジー作品に見られる。中華後宮熱は未だに冷めず、どこのコンテストでも中華後宮モノを欲しがっているからね。多少器用な人だと、ファンタジーベースで書いた作品を、舞台を中華に設定変更して用語を漢字変換して、「ハイ、中華モノ!」ってできちゃうのよ。 私はこれをすごく危ういと思っている。 それは別に、私が現在中華後宮モノを書いているから「中華ナメんなよ!」と言いたくなる、ということではない。そうではなくて、そうやって「好きでもないジャンルをお題だから書く」というつもりで書いていって、それが受賞した後のことを考えているだろうか? その好きでもないジャンルを、この先何年も書き続けられるのか? 今のラノベ出版社は、十巻オーバーの長編作品を求めているんだぞ? もし「最初はテンプレでいいじゃんか、その次で好きなの書けばいいんだし」なんて考えて応募しているとしたら、それはすごく甘い! 出版社は「作品」を取ったんであって、「小説家」を取ったわけではない。その賞を取った作品を書かなくなったら、サヨウナラが待っているだけだ。 小説投稿サイトから書籍化されるのがまだ珍しかった頃だったら、一つ作品が書籍化されたらその作者の他の投稿作品も続々書籍化されて――という流れはあった。けれど、今は投稿作品のどれもが粒ぞろいなので、一人の作者にこだわる必要はない。むしろ一人の作者に複数作品を書いてもらっていたら、その作者が筆を折った場合に売れ筋を大量に失うことになり、困ってしまう事態になり得る。だから「一作家一作品」みたいなスタンスを、出版社側が持っていたとしてもおかしくない。 いや、事実がそうかどうかは知らないけれど、あくまで私個人の考えでの話である。
そんなわけで、受賞した作品を長く書き続ける覚悟が必要なのだけれど、それには「このジャンル、この作品のココが好きだから書いているんだ!」という「好き」が大事なのだ。 たとえば、私の場合で言うとするならば。 中華後宮もSFもそうだけれど、読者を引き込むには作品の雰囲気が大事! 中華モノでカタカナ用語連発されたり、後宮にやたらに普通の男子を立ち入れられると萎えるし、SFでファンタジーみたいな魔法現象を持ち込まれても萎える。作品の雰囲気は、文章の雰囲気から始まるのだ。 それは、ソフトでカタカタ用語を漢字に変換をかければいいだろう、という簡単な作業ではない。読者の世界への没入感を邪魔する要素を、普段から排除するように意識して書くことが必要である。 これね、すごく面倒臭いからね? カタカナ用語しか思い浮かばなかったらネット検索をかけて、それでもいい感じの言葉がなかったら造語するんだから。ハッキリ言って、そのジャンルを好きで、愛がなければ続かない。 私は自分で想像していた以上にたくさん「百花宮のお掃除係」という中華後宮モノを書かせてもらっているけれど、当然途中で「コレ、面白いか?」と心が折れそうになることは多々ある。それを乗り越えるには、やはりジャンルが好き、自分の作品が好き、という「好き」の気持ちがどれだけ大きいかが大事だ。 その点では私は超絶ポジティブ人間というか、私は自分の作品のファン第一号なのである。これまで書いた二次創作を含むどれだけ売れていなかったり人気がでなかった作品でも、「ヤベェ、これ面白過ぎない?」って今でも思っているんで。本気で。「面白いとは思えないけれど、これが人気ジャンルだから書いている」とかやったことがないわ。 これは私だけじゃなくて、シリーズを長く書いている作者さんは皆そうなんじゃないかな?
このように色々と考えを述べたけれども、私個人としては小説家として成長していくという点では、今のWEB上にあるコンテストで「○○ジャンル限定」とかいうものに安易に乗っかるのは、器用な小説家さんこそ悪手になるのでは? と思ってしまうのだ。そのジャンルがそもそも好きな人が「チャンス」にするのはいいんだけれどね? 小説家デビューをしたい人が、無理やりにでもそちらに寄せて書いてしまうのもわかるだけに、余計に危ういのだ。 特に今、女性向け小説は冬の時代だし。 紙のレーベルでは、一昔前のコバルトみたいなド恋愛作品が今はさっぱり売れず、「ざまぁ系」を恋愛ジャンルのトップに押し上げている。あとはキャラ文芸やライト文芸が女性向けレーベルに数えられるけれど、あれは正確には女性向けではない気がする。残るは、電子オンリーのレーベルがあるくらいか。 そんな風だから「○○ジャンル限定コンテスト」というのは、実は女性向けジャンルに多くみられる傾向にあると、私は見ている。女性向けレーベルは、冒険する余力がないんだな……。 その点私の「百花宮のお掃除係」は、私の「好き」と世の中の「欲しい」が一致した奇跡の作品だと思っている。
私がこの作品を書き始めた時は、そこまで「中華後宮大流行!」だと思っていなかったのよ。先行して連載されていた「薬屋のひとりごと」を読んで、「あれ、このファンタジーバンザイのご時世に、中華モノを書いたら読んでもらえるんだ!」っていう、それだけだったから。 これが「流行りに乗った後出し」だとしたら、ウケそうな主人公像とか考えてしまって、雨妹さんみたいなキャラにはなっていなかったと思う。本当になにも考えず、私が好きなカンジでざっと設定を考えたらああなったし。
最後に、つまりなにが言いたいのかというと。 受賞作の一作で記念出版して終わるつもりならともかく、それきっかけでずっと小説家でいようと思うなら、ちゃんと自分の中の「好き」を発掘して、アピールしないとダメ! でないと、ネタが枯れてきて捻り出す時に、踏ん張りが効かないで「もういいや」ってなるから。 「好き」は創作の原動力なのだ!